博士と航空の歴史
 この項がまとめられたのは、ひとえに東京大学先端科学技術研究センター 隅蔵康一教授から、「先端研探検団第三回報告」を頂戴できたお陰です。深く感謝申し上げます。この報告の中で、特に驚いたのが、財団法人日本航空協会事業部長酒井正子さんの「愛すべき大科学者・田中館愛橘」でした。たった5ページの中に私の知りたかった全てが実にコンパクトにまとめられています!。 今までどうしてもわからなかった「日本で初めて飛行機を飛ばしたのは愛橘ではないか」という作者の疑問も、酒井正子さんによってハッキリしました。天にも昇る気持ちでした。ありがとうございました。
 また、所沢飛行場については、あらけんさんから貴重な資料の転載をご許可戴きました。喉から手が出るほど欲しかった、航空関連の写真は小船 浩幸さんから資料をお借りし、掲載のご許可を戴きました。皆様に感謝申上げます。 

「日本の航空界は愛橘博士によって始まった」
風洞(風筒)実験のエピソード(演劇脚本より) 日本初の飛行場選定など
グライダーが飛んだ!(演劇脚本より) 東京帝国大学航空研究所(製作予定)
・気流写真のエピソード(製作予定) ・航空の歴史(製作予定)
 明治の黎明期から昭和の敗戦まで、日本の航空の歴史をみると、至る所に愛橘の名前が出てくる。もし愛橘博士が居なければ日本航空界の急速な発展は無かったとさえ言えるほど博士の果たした役割は大きかった。
 愛橘博士が初めて航空に関わったのは明治37年(1904)博士48才頃。そして、明治40年(1907)万国度量衡会議第4回総会に列席した愛橘は、飛行機の重要性を痛感する。
 帰国後、「これからは飛行機の時代である」と力説する。しかし、当時は気球が重視されていて、飛行機が空を飛べるようになるとは信じられていなかった。

 陸軍は、気球を思うように飛ばせず苦労をしていたため、学者の協力を仰ぐ。愛橘は請われて陸軍の気球を飛ばすために、様々な協力を行った。日本で初めての飛行場を、所沢に選定したのも、愛橘博士だという。

 明治42年(1909)寺内正毅陸軍大臣から、斎藤實海軍大臣に設置が提案されて「臨時軍用気球研究会」が発足する。愛橘博士はこの研究会のメンバーとなり、以後日本の航空の発達に深く関わることになる。
 
(実は、軍令部第二班長山屋他人の意見書を受けた、軍令部参謀の山本英輔海軍少佐が、陸海軍共同研究を提案したのがはじまりだという) 
 
 (左の写真は、明治24年に陸軍が軍がフランスから購入したヨーン式軽気球。しかし、明治27年の日清戦争の際は、役に立たなかったらしい)
ライト兄弟が飛行機を発明したのは1903年。そのわずか4年後の渡欧で「飛行機の重要性」に気付いた愛橘は、帰国するやいなや、航空機の基礎実験にも夢中になる。
 もちろん当時は何もなく、愛橘は「長持ち」を加工した小さな風洞を造り、研究に熱中したという。
時の海軍大臣斎藤実も、軍用気球研究会で中心であった山屋他人(皇太子妃雅子さまの曽祖父)も、愛橘博士も共に岩手県人である。航空の草創期に岩手出身の三人が関係していることは興味深い。
 
 
「常路沢 むへもと見けり 名にしるき
     いものなりして そらふねのとふ」
 

この句は、所沢の飛行場で、陸軍イ号飛行船が飛ばされた時に、愛橘博士が戯れに詠んだもの。(明治44年10月)
明治42年(1909)愛橘の所へ相原四郎海軍大尉と共にル・プリウールというフランス人が訪れた。
 愛橘はグライダーを飛ばしたいというプリウール達に指導・協力し、何度かの実験の後、ついに複葉グライダーが上野忍之池上空を飛ぶことに成功した。
 
ライト兄弟からわずか6年後のことである。また、飛行実験に際しては、時の一高校長であった、新渡戸稲造がこれに協力したという。
 
(下の写真は当時複数枚セットで売られた絵葉書という。)
 秋元実氏の著書「研究機開発物語」によると、「臨時軍用気球研究会」の研究対象には飛行機も含まれていたが、当時は飛行機の実用性を疑う声が高く、「飛行機研究会」では予算がとれないため、あえて「気球研究会」にしたという説を紹介している。
 愛橘は、第一回の会合で開口一番、気球という名称を問題にした。それがきっかけで大議論となった。結局長岡会長が「名称にこだわらず実質本位で行こうと」落着させたという。

明治43年(1910)愛橘は航空事業視察のため欧州へ派遣される。「飛行機」への期待は急速に高まり、この年の12月19日、徳川好敏大尉によって日本初の飛行が記録されることになる。

(アンリ・ファルマン式50馬力複葉機、代々木練兵場にて高さ70m、距離3kmを4分間飛行) 同じ日、日野大尉も空を飛んだとされる。


愛橘は、後に東京帝国大学航空研究所を設立(大正4年)する原動力となる。この背景には、基礎研究を重視する愛橘たちに対し、性急に成果を急ぐ、軍部との意見が分かれたことも原因とも言われているらしい。

(下の写真は、ドイツ製グラデー式単葉機。明治43年代々木錬兵場で、日野大尉が10メートルの高度で60メートル飛行した時のものという)
 ちなみに、財団法人日本航空協会事業部長酒井正子さんによると、「グライダーではあるが、我が国初の飛行はこの愛橘が作った複葉機である」という意見もあるそうだ。

 だが、操縦者が外国人(ル・プリウール)であったこと。同じ日に、同機で飛行に挑戦した相原大尉が、失速して不忍池に墜落したことなどから軍部には歓迎されず、初飛行とは認められなかったようだ。
 翌年、徳川大尉のエンジン機による飛行が、日本の初飛行とされている。もっとも、実際に初飛行に成功したのは日野大尉が先であったというから、不思議な初飛行記録である。

 作者は愛橘博士こそが日本で初めて飛行機を作り、初飛行を実現した人だと信じる。

はじめのページに戻る